30代、もうすぐ死ぬかも
お盆も近づいてきたので昔話。
?年前、家族ぐるみで仲が良かった父親の友人が亡くなった。年は40すぎとか。 当時自分は小学生とか中学生で、これを正確に覚えていないのも今となっては良いことだと思う。
父親との関係が微妙になり始めていた時期で、彼のような「外の大人」は貴重で、自分は友人の子どもといういい顔をしてもらえるような立場だったおかげか、素直に尊敬できる大人だった。
明るいいいヤツ、みたいな言葉がとても似合う人だった。理想の大人像にするにはちょっと荷が重い。
ちょっと物心がつくのが早かったので、小学生の頃から60歳くらいの人はもう死ぬのかなみたいな気持ちで眺めてたけど、親と同じ年齢、かつ毎年何回か会っていたような大人が亡くなる経験はその時が初めて。
薄情な人間なのだろうか、悲しみに耐えられないというよりは人生のトーンが落ちたという感覚だった。今でも精算できたみたいな気分の良さは無くて、ちゃんとトーンが落ちたまま、それに慣れたという感覚が正しい。
あ、人間ってこれくらいの年齢でも死ぬんだ、という頭では分かっていても実感しづらいことが急にインストールされて、それで心があんまり悲しもうとしなかったような気もする。
良く覚えているのは、彼の子どものうち下の子が、まだ何が起きたのかあまり分かっていないのか葬式でも明るく楽しそうにしていた光景。
上の子は当時小学校高学年とかで、なんとなく物わかり良さそうな人の印象だったので、全てを理解した顔をしていたのも覚えている。
その二人が対照的で、創作でよく見る葬式で明るい子どもが物悲しさを引き立てる、みたいなことって本当にあるんだな、と思った。
結局あの家族とは、家族としては葬式以来疎遠になってしまった。親はそれからも何か交流があるのかもしれないけど、自分には何も情報が入ってきていない。
うちの親のことだから、何も考えずそうしている可能性もあるし、何か理由があって情報が遮断されている可能性もある。自分としても未だにその後を聞く気にはなれず、そこでこの話は終わっている。
家族愛とか死生観が人生のテーマになってしまった感覚はあって、恵まれた家庭で育ったことによる家族への愛着もあるだろうけど、親になったこともないのに親側の感動する話とかに昔から弱い。CLANNADは人生。
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社会的に成功している人が、こういった体験によって明日死ぬかもしれないから今日本気で生きる的思考パターンになった、みたいなことを話しているのをよく見る。
その気持ちは結構共感できて、あの日から良くも悪くも考え方が変わったような気は、確かにする。
が、怠惰な人間なので別に何か社会的に成功するほど努力することもなく、成し遂げたこともなく、あの頃と変わらずネトゲやってるし、まあ人生そんなもんかもと思いつつ、彼が亡くなった年齢が近づいてきたのを、健康診断で結果が悪かった肝臓の再検査で思い出したりした。